はい
いきなり動画から始まりましたが、
2016年・SCANDAL・ロンドンでのライブです。
曲は記事題名どおり「ちいさなほのお」。。

この題名から皆さんならどんなことを思い浮かべますか?
答えは様々ですよね。。
大切な人と過ごす夜に灯したキャンドルの火。
子供の頃仲間と灯した焚き火。
何であれ、大切な時間を思い浮かべるのではないでしょうか。。

小さな火って、なんだか心を癒してくれるような気がしますよね。
冒頭の動画の曲の歌詞にもあります。
「うまく進めないあなたを誰も責めたりしないから」。。
そんなふうに、「ちいさなほのお」が大きく自分を癒してくれる。
そんな気がしませんか。。

で、これはいったいどんな内容につながっていくのか?
石の時代?なにそれ??
なんて思われるでしょう。。
はい!それはこの後のお楽しみです


・・・・・まずはお散歩から・・・・・

とりあえずは皆様、お散歩に付き合っていただきましょう。。
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ここは長野県諏訪郡下諏訪町、諏訪大社下社春宮の下馬橋の前でございます。。

この下馬橋はですね、年に二回、「お舟祭り」という神事の時に
神様だけが渡ることができる橋です。。
現在の建物は室町時代に造られたものでしてね(その後再建もあり)、
鎌倉時代の建築様式だといいます。。
最初にこれが造られたのがいつなのか?
それは定かではありません。。

では皆様、この先に進みましょう
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まっすぐ進めば春宮境内ですが、
本日は鳥居前を左折いたしますよ。。
お参りはその後にしましょうか。。

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春宮の入口前を左折しますと、すぐにこんな橋が見えます。
この橋を渡りまして、あの右に曲がる坂を上りますよ。。
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橋の下を流れる砥川はですね、諏訪地方随一の清流です。
澄んだ水の流れが心地よいですね。。

あの坂道の手前を砥川に沿って少し行きますと、
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万治の石仏が佇みます。。
本日の目的地は、この石仏の裏側の高台です。。
せっかくだから石仏を拝んでから直ぐ裏側に出たいですけどね、
そこは崖なので橋に戻りましょう。。

さて、あの坂道を上りますと
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左側に小さな神社が鎮座しています。駒形神社です。
この神社の由来等は・・・
全く調べていません
要するに、当記事の内容にはあまり関わりが無いということです。。

それよりも、もうちょっと先
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伏見宮殿下・・・と書かれた碑が建ちます。
なぜこのような碑が建っているかといいますと、
昭和4年、伏見宮殿下がここで発掘調査を行なわれたのです。

この一帯は「小田野駒形遺跡」といわれる遺跡地でしてね、
旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代と、
かなり幅広い年代の遺構・遺物が検出された大遺跡地なのです。。

春宮からも至近距離にあり、大社との関連性も考えられる重要遺跡地なのですが・・・
宅地開発を急ぐあまり、十分な調査が行えないまま遺跡はほぼ壊滅してしまった、
と藤森栄一氏の手記にも書かれています(下諏訪町史に掲載)。

そして今、この遺跡地周辺におけるバイパス計画が進んでおります。
このバイパス計画も「早期実現」が優先されているようですが、
どうか十分な調査を行っていただけるように願うばかりです。。

ちなみに、このバイパス計画に関連して、vol・1で度々記事にした
一の釜(ここから至近距離)ですが、{該当記事}
本年9月、長野県埋蔵文化財センターによる発掘調査により
縄文時代の遺構が確認されたようです。

一の釜の背後には、私が以前から重要な遺跡であると主張する「上の城」が在ります。
このように、春宮周辺は遺跡の宝庫です!!
だから春宮はそこに存在する、そのようにも思えるのです。

あれっ・・・なんだか余談となってしまいましたね
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とりあえず駒形神社から岡谷市方面の展望。
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そして小祠。。
こういう小祠、なんだか存在感ありますよね。。
ちいさな~ほこら~♪
はい話を進めましょう

お散歩はここで中断しまして、ちょっと難しい話に入りますよ!


・・・・・どんな時代?・・・・・

さて、小田野駒形遺跡はいろんな時代の遺構が重複する遺跡ですが、
今回は旧石器時代を中心にお話させていただきますね。

旧石器時代、石の時代です。
まだ私達の祖先が土器を使用する前の時代です。。
実年代にしますと、これが明確には表記しがたいのですが、
およそ一万六千年前から一万年前くらいが
旧石器時代から縄文時代への過度期と考えられています。。
ですから、旧石器時代は新しくても一万年以上前、
としておきましょう。。

ちなみに、日本では土器の使用をもって縄文時代となるわけですが、
最古の土器は青森県で発見されたものでして、
一万六千五百年前の物といわれています。
これは世界最古の土器といわれていたのですが、
近年になって中国でそれよりも古い土器が発見されたという
新聞記事を目にしました。これには賛否両論あるようですが、
どちらにしても、世界に先駆けてかなり早い段階で日本では
土器が使用されていた(作られていた)ことは確かなようです。

古代の各時代について、こんなふうに覚えていただけたら良いかなと思います。
・土器の使用→縄文時代
・稲作と金属器の使用→弥生時代
・どでかい墓を造る→古墳時代(この後期が飛鳥時代)
・平城京(奈良市)が都となる→奈良時代
・平安京(京都)に都が移される→平安時代

で、石や動物の骨で生活に必要な道具を作り始めたのが旧石器時代。。
現代人にしてみれば、なんと不便な時代か・・・なんて思われそうですが、
他の動物が今だに成すことができない「道具を使う」ということを
人類が始めた時代です。テクノロジーの第一歩といっても過言ではないと思います。
このような、現代人から見れば原始的な技術から始まり、
長い年月をかけて一歩一歩前進して現代の工業技術へと発展していったのです。
それを思うと、その時代を生き抜いてくれた祖先達に感謝すると共に、
遺跡から発掘された数々の遺物達に敬意を表したいと思うのです。


・・・・・ブランド?・・・・・

さて、旧石器時代といわれるとても古い時代、
この時代の遺跡が諏訪には結構多いのです。。
その要因は何でしょうね??

旧石器人達は、道具に使用する石材にこだわりました。。
加工しやすく、そして使用しやすいもの・・・
遥か三万年以上も昔、彼らは諏訪盆地を囲む北側の山中でそれを見付けたんですね。
それが和田峠周辺の「黒曜石」です。。
黒く光るガラスのような石。
裂けやすく、矢尻やナイフとして使用するのに最も適した石材。
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上の写真は、昨年、一の釜で拾った黒曜石の破片です。


黒曜石の産地は日本中にいくつか存在しますが、
その中でも和田峠周辺のそれは最も良質だといわれています。
つまりは、諏訪ブランド黒曜石といったところでしょうか。。
ですので、東北や北陸など遠方の遺跡(縄文時代)からも、
和田峠周辺の黒曜石は出土しています。

諏訪が聖地として認識された最初の要因、それはこの黒曜石では
ないかと私は思うのです。
旧石器時代から弥生時代まで、この辺りで産出する黒曜石は
人々の生活を支え続けたのですから。
下社の御柱が黒曜石鉱山が在った山中から切り出される事実を考慮しましても、
やはりそのように思われる次第です。
但し、それにはもう一つ考慮したいことがあるのですが、
それはまた別機会にお話いたしましょう。。


・・・・・記念となる遺跡・・・・・

旧石器人達はなぜか霧が峰などの高原地帯を好み(縄文時代初期も同様)、
諏訪地方の旧石器時代遺跡の殆どが高原地帯です。
長野県北部でも、飯縄高原などに著名な旧石器時代遺跡が在ったりします。
ですので、当記事で主題としている小田野駒形遺跡などは、
諏訪地方の旧石器時代遺跡としては珍しい地理的条件だといえます。
他にも下諏訪町には比較的低地の旧石器時代遺跡がいくつか在るのですが、
それもまた別機会としましょう。。

で、本題の小田野駒形遺跡ですが、
日本で最初に発見され調査された「旧石器時代の住居」があったのです。。
あっ・・・誤解しないでくださいね
「日本で最初に発見された旧石器時代遺跡」ではありませんし、
「日本で最初に旧石器人が暮らした跡」でもありません。
繰り返しますが、
「日本で最初に発見された旧石器人の住居跡」です。。

旧石器人の住居跡というのは今だに多くは発見されていません。
人が道具を使い始めてから定住生活が一般化するまでには、
相当な年月がかかっているのです。
ですから、この遺跡で旧石器人の住居が見付かるまでは、
彼らが竪穴住居を造っていたなんて誰も思わなかったでしょう。


・・・・・最初の神?・・・・・

旧石器時代に住居を造るなんて、
当時の人達から見れば神のような存在ではなかったか・・・
なんて想像が頭をよぎります。。
あるいは、諏訪盆地に最初に降臨した神、
そんな想像までしてしまいます。。
しかし、そんな遺跡が春宮のすぐ側にあるということは、
偶然なのか必然なのか・・・
旧石器時代はともかく、その後の縄文時代(中期)のこの遺跡の様相を見ますと、
やはり偶然ではないように思われます。
そして、その縄文時代中期の様相を造り出す要因は、
遡れば旧石器人時代にここで暮らした人達にあるのではないかと、
そんな想像をしてみた次第です。

で、縄文時代中期にはここに何があったのかといいますと、
石棒が並んでいたらしいのです。。
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こんなのが並んでいたんですね(写真は前記事「image」にて掲載)。。
しかもその位置が、拙著電子書籍「諏訪湖に沈んだ武田信玄の墓?」で指摘した
「春宮と富士を結ぶ直線」の延長に突き当るのです。。
上記書籍の中で私は、この遺跡地にタケミナカタの宮殿があったのではないか?
と示唆しました(弥生時代中期の遺物も出土してることからも)。
そして、あの下馬橋は、宮殿の入口を示すものではないか、とも考えました。

しかし、縄文中期の石棒、これもなかなかに怪しい・・・
諏訪市四賀の「有賀氏祝神遺跡」の例(過去記事・Imageに詳細)もありますからね。
縄文中期型の石棒だけどもその場所に並べられたのは弥生時代?
なんて可能性もないとはいえません。諏訪ですから。。

さて、ここまでの情報で、読者の皆様ならどんな推理をされますか?
私は次のように考えます。
この地は、旧石器時代以降、度々有力者が暮らす(又は特別視)場所だった。
故に、元々この場所が重要であり、春宮はその位置を示す存在であった。
というようなことを、もうちょっと詳しく上記書籍には書いておりますので、
興味がありましたらご一読をお願い申し上げます(ちょっと宣伝)。

春宮の下馬橋は、タケミナカタの宮殿入口を示すものか?
あるいは、背後に控える黒曜石鉱山を神の住む場所とみなしたものか?
あるいは、その両方か?

縄文時代中期の様相に少し付け加えますが、それは、
環状型、又は馬蹄型に近い配列を持った集落であったようです。


・・・・・遺跡の概要・・・・・

考古的興味をもってこの記事を読まれている方もいらっしゃると思われますので、
この遺跡についての概要も簡単に記しておきます(旧石器時代についてのみ)。

下諏訪町史に掲載された藤森栄一氏の手記によれば、
その調査は昭和35年に行われました。
以下、その発見時の内容を箇条書きに記しますと

・ローム層中から石積が現れ、石積北側から八個の旧石器が密着したまま
重なりあって出土した。
・この石積は、昭和27年に諏訪考古学研究所(藤森氏が主催)が調査した
諏訪市茶臼山旧石器遺跡で確認した「炉跡」と同様のものだった。
・調査二日目早朝、炉跡が何者かに破壊されていた・・・
・破壊された炉跡から掘り起こされた石礫の様相(火焼け、ひび割れ等)から、
それが間違いなく炉跡であることを確認する(石を焼いてその熱を利用するもの)
・炉跡を中心として径3.6~3.8mほどの不整形な円形竪穴を確認。壁面の凹凸が甚だしい。
・西方の壁は低くなだれ、末端は消滅している(入口か?)。
・南西隅(春宮方向)は一段、段上の高い張り出しが竪穴内に張り出している。
・東のやや縊れた部分に、二個づつの立石状の自然石が、それぞれ対立して
二箇所に据えられている(私見ー磐座祭祀の原型か)
・柱穴は確認できない(樹陰利用か、テントふうのものか)。

出土遺物について

・竪穴内で出土した石器は全て黒曜石製。石刀は全く無い。
錐のような尖頭器(?)とスクラップを用いた不定形石器を確認。
・竪穴外で出土した石器は、両面加工の比較的整った形の石槍(先端に自然面が残る)。
竪穴内で出土したものと類似する錐状石器。その他破片、
又は縄文時代のものか旧石器時代のものか判断のつかないもの等。

簡単ではありますが、遺跡の概要は以上となります。
この遺跡についてもっと詳しく知りたい方は、
下諏訪町史等の閲覧をお勧めいたします。


・・・・・遥か古に灯された火・・・・

火・・・それは遥か昔から人を癒し、そして豊かにしてきたものです。
小田野駒形遺跡の調査報告からも分かるとおり、まだ土器さえも作られていない時代に、
人はすでに火を起こす術を知っていました。

小さな炎は人を暖め、調理に利用され、
少し大きな炎は土器を生み出し、
さらに大きな炎は金属器を生みだしました。

原点は「ちいさなほのお」。
それは今でも人を癒すもの。
そんな小さな炎が、一万年以上前のこの場所でも灯されていました。
そこでは何を思い、どんな会話があったのでしょうね。
氷河期といわれる厳しい自然環境の中で、
我々の祖先を癒してくれた小さな炎。
そんな場所が、春宮のすぐ側にあったということを、
どうか忘れずにいてほしいと願います。


それでは最後にもう一曲。
なぜこの曲?といわれると返答しがたいのですが、
まぁ、私の気分的なものですかね

曲はSCANDAL「Departure」。


<参考>
・下諏訪町史
・下諏訪町の埋蔵文化財(下諏訪町教育委員会)
・その他