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冒頭の写真はヒンドゥ教の神様「ガネーシャ」。
このはじけたお姿、素敵ではありませんか。。
ガネーシャ大好きです!!
で、それがどんな話につながっていくのか?
それはこの後のお楽しみということで・・・


・・・・・すごいぞニッポン!・・・・・

ところで、
日本人って凄い!そう思う時がありますよね。。
それはどんな時かといえば、
日本の技術が世界中で活躍していることを知った時ですとか。
自動車、家電製品、最近ではアニメ。
現代の技術だけではなく、日本の文化や歴史的遺産なんかも、
結構海外では人気だったりします。。

世界中で高い評価を得ている日本の技術(主として工業技術)ですが、
どのようにして身についたものなのでしょうね?
努力・・・?? 勿論それはいうまでもないことですが、
では、他の国々の人達は努力してないのでしょうか??
そんなはずはありませんよね。。
努力が大きく開花する素地、そのようなものが日本人にはあるのではないか、
と思う今日この頃です。。


・・・・・日本人よりも優秀な民族とは・・・・・

少し話がそれますが、
3年ほど前、私は品質管理の講習を受けました。
その時の講師の先生がインドの話をしてくれたのです。
先生曰く、
「昨年(3年前の昨年)、仕事でインドへ行ったのだけど、
現地人の優秀さに恐れ入った・・・」
「私は(先生は)、計算能力などは日本人が最も優れていると思っていたけど、
彼ら(インド人)にはとてもかなわない・・・」
というようなお話でした。。

いかがです?驚きましたか??
しかし、近年インド人のIT技術なんかはかなり高い評価を得ているようです。
いかんせん、インド本国で活躍しきれない状況にあるのが気の毒ですね・・・

ただし、インド人といいましても単一民族ではありません。
かなりの多民族国家であるわけですが、
その中でも大多数を占めるのが、
北部の「アーリア系インド人」と南部の「ドラビダ系インド人(タミル人など)」です。
で、先述した先生の話にあるインド人や、優れたIT技術を持つインド人は、
どちらも南部のドラビダ系インド人のことです。
世界四大文明の一つといわれる「インダス文明」を築いたのもドラビダ人です。

大文明を築き上げたドラビダ民族ですが、
ある時(4000~3500年前?正確には分からない)、アーリア系民族に攻められて
後退したといいます(異説もあり)。
そして、インド南部に追いやれたそうです。
その時ですね、南ではなく北へ逃げた一団もあったといいます。
その人達は何処へ行ったかといいますと、
なんと!、それが日本らしいのです。。


・・・・・大移動?!・・・・・

言語学者の大野晋博士の学説でも、
日本語のルーツはタミル語(ドラビダ語)にあるといいます。。
大野博士の学説には反対意見もあるようですが、
一応ここではそれを肯定して話を進めます。

言語にまで影響を与えたとすれば、日本へ移住したドラビダ民族は
相当なリーダーシップを発揮していたと解釈できそうです。
例えば、広域支配国家の形成に導くような。。
実は・・・
日本に移住したドラビダ族の話は旧出雲王家「富家」の伝承によるものでして、
彼ら自身の話です。。
つまり、この列島で始めて広域支配国家を築いたのはドラビダ民族だったということです。
それが「出雲王朝」です。。

諏訪大社のご祭神である「タケミナカタのみこと」も富家の人です。
諏訪明神に関わる伝説にもインドの話がよく出てきます。
神道集にある話などがそのよい例ですが、霧が峰高原の「八島湿原」などでも
「諏訪明神はインドの王様だった」というような伝説が書かれた説明版を目にします。

では、日本人はドラビダ民族か?というと、そんな単純な話ではないのです。。
ドラビダ族(出雲族)が移住してきた時(3500~3000年前)、
日本は無人の地ではありません。縄文人達が暮らしていました。
当然、長い年月をかけて両者は混血もしていったでしょう。
そして、富家の伝承によれば2200年前頃、
中国から「徐福」という人物が大勢の人を連れて移住してきたといいます。
この徐福の子孫たちは丹後(京都府北部)や北部九州などで大勢力となり、
やがては大和(奈良)に進出して大和王朝を築きます。
これが天皇家につながるとされる王家ですが、
その初期においては富家と婚姻を重ねています。。
ちなみに徐福一族についてですが、ルーツは古代イスラエルにあるそうです(富家伝承)。

その他にも細かいところをいえば、
朝鮮半島からの移住者や東南アジアからの移住者も存在したようです。
ですから、日本人のルーツは?といわれても特定できないというのが実情です。。


さて、長い余談となりましたが話を戻しましょう。。
つまり、日本人の技術力の根底にあるものはドラビダ民族の血ではないか?
そんな問題提起を投げかけてみたわけです

富家の伝承にある日本への移住ルートなど、またその他の内容についても、
部分的な矛盾点(考古資料との比較から)があるのですが、
大筋では信頼しても良いと私は思っております。
今後、その矛盾点について、又は伝承と考古的知見との比較、
そのような記事も書いていこうと思っております。


・・・・・ちょっと難しい考古的な話・・・・・

少しだけ富家伝承について肯定的な話をしますね。
彼らは日本に移住する前、がジス川支流の上流部が拠点だったといいます。
そのガンジス川中流域で、約4000年前~3600年前頃、「銅器を埋める」という行為が
行われていたようなのです。
その終焉は、出雲族がインドを離れる時期に該当しそうです。
銅器埋納といえば、弥生時代後期の日本でもそのような遺跡が多くありますね。。
その中でも出雲の荒神谷・加茂岩倉遺跡は著名です。
{*弥生時代後期とは、約2000年前~1750年前頃ー国立歴史博物館による見解}
{*上記の出雲の遺跡は、富家伝承によれば後期後半、実年代では2世紀中頃から末葉}

また、岡谷市「天王垣外遺跡」で発掘された玉類と同様に、
壺に入れて埋納するという行為もインドの遺跡で発見されています。
これはインダス文明期の遺跡でも見られる事象ですが、
富家伝承にあるかつての居住地「マディアブラデーシュ州」でも同様の
事象が確認されています。
その時期は約4000~3800年前頃、「カーヤター文化」と呼ばれています。
まだドラビダ族がアーリヤ民族に追い詰められる前の遺跡です。

カーヤター文化期の遺物についてもう少しお話させていただきます。
私が驚いたのは、この文化期の土器様式が、縄文時代晩期(伝承にある出雲族移住の時期)
の土器に類似するが感じられることです{精製土器と粗製土器の存在など}
但し、現物ではなく写真と文章からの印象ですから、私の見解が正しいかどうかは
強い自信を持つには至りません。

ちなみに、初期弥生式土器は亀ヶ岡式土器(縄文晩期)の影響で成立した土器様式だという
見解も示されています{*縄文時代から弥生時代へ・西本豊広編 雄山閣}
{*弥生初期とは、北部九州では約3000年前以降。その他西日本では
約2800年前以降ー国立歴史博物館による見解}

カーヤター土器には「櫛描文」といわれる模様もあるのですが、
これも弥生時代中期以降の山陰・北陸・信州などの土器の模様に取り入れられています。
{*弥生時代中期とは、約2400年前~2000年前頃ー国立歴史博物館による見解}

以上、日本とインドにおける類似要素を持つ考古資料を紹介いたしましたが、
いずれも両者の年代がかけ離れていますので、これらを関連付けるには、
さらなる物証と検証が必要かと思われます。
今あえていうとすれば、元々の文化要素(出雲族の)がある時期に復活した、
という見方も可能かと思われます。

富家伝承とインド考古資料との比較検討は、また記事をあらためまして、
もう少し詳しく検証した文を書こうと思っております。


・・・・・締めのゆるーい話・・・・・

私も30年くらい前にインドを旅したんですけどね、
最も印象に残ってるのが南部に多くあるパステルカラーの寺院です。
それはドラビダ系民族によって建てられたものです。
ミナークシ
写真はその中の一つで「ミナークシ寺院」。
どうです素敵でしょ。。なんだかはじけてますよね!
こんな建物を造る人達と日本人とが同じルーツを持っているかもしれないなんて、
なんだか楽しいではありませんか。。
そういえば諏訪大社も極彩色に彩られていたそうですよ(上社本宮)。
それは織田軍団に破壊されちゃったんですけどね(戦国時代)・・・

ちなみに、日本の神社に祀られる「猿田彦大神」、
その原型は冒頭の写真にあるガネーシャだといいます(富家伝承)。

古代の諏訪にはね、あの派手な縄文文化と、
あんな寺院を造っちゃう民族の文化とが共存していたと思うんです。。
想像するとワクワクします。。
ですから、諏訪、本当はもっとはじけていいんじゃない?!
なんて思ったりするのです。。
例えば、常に御柱ムードとか。。


というわけで、この一曲で当記事を締め括ります。
SCANDAL「Spakling」。楽しくなりますよ!

おいおい、なんだか無理やりだな、なんて思われそうですが・・・
いいじゃないですか


<参考>
・インド考古学の新発見(B・kターバル著 雄山閣)
・出雲と蘇我王国(大元出版)
・日本語の源流を求めて(大野晋著 岩波新書)
・縄文時代から弥生時代へ(西本豊広編 雄山閣)
・その他